2014年6月1日日曜日

公共(パブリック)について

半径10メートルの世界?
社会問題に関心のある方というのは、そう多くないのだなあと感じます。

わたしも特に関心が強いわけではないのですが、自分に知る義務や責任のあるように感じています。世界の中でもごく一握りの、恵まれた国に生まれた者として、この日本のわたしたちが知らなければ一体誰が知ればいいんだろうって。

(わたしたちはいつまでも世界の国々の中で責任のない幼い子どもで、白人の国のもっと教養のあるインテリたちにすべて任せておけば良いと、どこかで思っているのかも)

義務や責任のある感じ、その感じの根拠は、たぶん公共、パブリックという概念です。わたしの中では、誰もが誰もに責任がある、というイメージです。
世界に関わる以上、その仕組みの上に乗っかって、さまざま享受する参画する以上、その世界に対して責任を追う、それはほとんど権利であるかも。
この公共という物差しを、もっと多くの人が持ってくれると話しがしやすいのになあ、と思うことがよくあります。 手持ちの物差しの違う者同士の会話ほど、すれ違い続けるものはないから。。

わたしたちの豊かさは、何を犠牲にして(安い食べ物、安い服、安いサービス)成り立っているのか。オートマティックに様々なものが供給され、それは自動販売機のようなブラックボックスに見えるかもしれないけれども、中では誰かが泣いたり苦しんだり、死んでしまったり。そういうことに、まずは知るということからでも、関わっていかねばならないのではないか。

知るのはつらいことなので、今それを受け止められない人は、手に余るから受け取らない、そういう選択をするだけでもいいと思います。無自覚で避けることと、意識して避けることはまるで違う。
わたしも、 つらい社会問題に触れると、つかれて元気がなくなってしまうので、どこまでも知ることや関わることは出来ません。際限のなさすぎて、すり減ってしまう。
自分の楽な範囲で知れることをと思います。


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