2015年7月27日月曜日

大阪、ヴォルフガング・ティルマンス展。

7/24、25と大阪へ。
国立国際美術館でヴォルフガング・ティルマンス展を観てきました。
日本では11年ぶりになる大きな展覧会です。
(オペラシティのあの展示が、11年も前のことだとは、、!)
http://www.nmao.go.jp/exhibition/exhibition_b2.html

展示の感想をメモがてら。
男か女かという枠組み。(男か女かという概念を捨て去り、裸の男女をあらためれば、きっとその姿らは良く似ている。物理的な差異は小さなものに過ぎないが、わたしたちの頭の中で差異は膨れ上がる)ひとたびそれを疑うことを始めたら、あらゆる枠組みを疑わざるを得なくなる。そういった枠組みのもたらす矛盾について考えざるを得なくなる。考えはじめることは、枠組みからの解放に至る最初の一歩だ。とはいえ以前ゲイの友人から、ほとんどのゲイは非常に保守的という話しを聞いた。まず革新的な話しは出来ない、ゲイこそ保守、なのだそう。(わかる気はする、弱い少数であることは人を縮こまらせ勇気をなくさせる。勇気がないと多数の権威に従うようになる。自分の頭で考える事をはじめた人を除いて。考えるのは勇気とコストがいることなのだ。後でも書くけども、写真がティルマンスに考えること・考え続けることをさせたのではないかと思っている)

モニターの荒い粒子と宇宙、活動家、人、自然、人工物。倉庫のような場所に立つ眉毛の繋がった男性はまるで森で不意に人間と出会った野生動物の姿のようだった。ミクロとマクロのものが繋がること。ひとつであること。

作品、トゥルーススタディーセンター。テーブルの上の様々なスクラッピング。ティルマンス以外の人によって構成されたもの。思考が外部化されたように思う。写真を撮る行為とはなんなのか。



ティルマンス、アーティストトークの内容を幾つか。箇条書きに。

・世界認識について。トゥルーススタディーセンター(テーブル上でのスクラッピングの作品)の部屋にかけてあった写真群は(例えば蟹とハエの写真)、ものすごく解像度の高い印刷技術で出力されているそう。人の目では認識できないほど精密に。自分が認識出来ていることと認識出来ていない外部がある。しかし全体が見えているということが重要。蟹の写真は全体が見えている。たとえばデモについて。その姿は、ひとりひとりは、粒子は確実に美しい。それが一番大事なこと。

・写真の持つパラドックスの問題 。例えば大きな作品とそれが縮小された小さな作品と、人は同じ作品と認識する。同一に見えるということ。

・(展示を観ていて音楽のようにリズムを感じた、ふだんはどういう音楽を聞いているのですか?という一般からの質問に対する返答)歌うのが好きだ。歌うことは特別なことだ。歌うと自分の体がなくなり、歌そのものになる。写真も同じだ。



歌の話し、すごく面白いと思った。「写真」はティルマンスにとって記憶を外部化し、その上で自分とは独立した思考をさせる自動装置ではないかと思うのだけれども。(それは自我の作用によって急速に何かを全身でフォーカスしたり、それ以外のものをすべて忘れ去ったり、ホルモンや体内の化学物質に応じて変化したりなんかしない。独立したアーカイブ)彼にとっては写真も歌と同様に、いずれも自分がなくなるということで。そういった外部装置の在り方は、勉強をすることによって(例えば法を、倫理を、哲学を)成立するものだろうと思ってたのでした。でもそれ以外の方法でそこに至るのはとても格好のよいことに思える。自我を判断に関わらせない方法を自分で生み出すこと。

先日読書会でドゥルーズのスピノザ、共通概念の項が想起させられ、まさにと思ったのでした。写真の持つパラドックスの問題は、わたしたちが認識を発展させる足がかりだ。ティルマンスの至り方は共通概念における理性の獲得・拡大の仕方と同じだと考える。愛によって美しい粒のわたしたちは世界をより美しく繋げることができる。

またわたしたちがより自分自身を推し進めたいとしたら、自分なりの自分の心に沿う仕組みを作ることはその助けになるのではないかとも思う。


雑然としてますが、とりいそぎ。

*オープニング前夜men onlyのクラブでの記念パーティ、後半ティルマンスがマイクをはなさず歌いまくってたのが印象的でした。ドラァグクイーンの方々にはじめてお会いしました。華やかでコケティッシュで、もしかしたらなろうとしている自分以外の誰か、すでにそれそのものだと思いました。2時頃には引き上げましたが、朝まで大盛り上がりだったようです。


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