2015年8月9日日曜日

声を聴く。

もうじき終戦記念日です。
8月6日に広島に「ウラン爆弾」が、8月9日に長崎に「プルトニウム爆弾」が落とされ、8月15日に終戦をむかえる。2種類の異なる原子爆弾が落とされたことは紛れもなく冷徹な実験でした。(ただもし大日本帝国が原爆を有していたならば、情け容赦なくそこここに落としまくったことと思う。一片のモラルもなく)

戦争を体験した世代の方々が減る一方の中、直接の体験のよすがにでも触れることのない世代が増え。わたしはなんとなく取り返しのつかないものを逃すような思いをこの時期になると感じます。両親は戦争を体験はしていないけれども、悲惨な状況を肌で感じることの多かった世代です。その空気のようなものをわたしは感じて育ちました。ですが、わたしたちの世代の子どもたちに空気は伝わらないでしょう。ある時代常識だったことが、いとも簡単に別のものに塗り替えられることが起きる。たった10年前のことでも、体の感覚から遠のいていることを感じます。忘れるのは、わたしたちにとってたやすいことです。

いつか、戦争のあの時期の暮らしぶりについてお年寄りたちの声を聴く会、を企画したいなあと思っていたのでした。大文字の戦争ではない小さな話しを。顔を見合わせることの出来る小さな場で。

どなたかお手伝いしてくださる方がおられたら、うれしいです^^




とりいそぎのmemo :
NHK、鶴見俊輔、50年後の未来は気になるか?という質問に対し。永遠は生に含まれる。
ホワイトヘッド(哲学者)最後の講演、壇上を降りる時の最後の一言を聞き逃しFAXで送ってもらった。そこには「Exactness is a fake.(精密さは作り物)」とあった。永遠は生きている感覚の中に在るのだ、最後の一息の中にも在る。

(若い時に感じた「一生」や「年をとってからの感覚」は今にして思えばまるきり違うものだったとしばしば思う。あれは若い日に想像した老いでしかなく、嘘ではないが若い日に含まれたものだった。若い日の一部だった。今に在るものがすべてできっと永遠だ。)

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