LC読書会を終えて:森鴎外「青年」
先日のLC読書会。課題図書は森鴎外の「青年」、総勢12名のたいへん活気づいた楽しい時間となりました。
はずかしながら森鴎外を読むのは今回が初めてです。
なにやら他の作家の小説と勝手が違っているように思われるのは、これが西洋の文化・文学を知らしめるべく書かれたものだからなようです。
漱石「三四郎」の出された2年後、西洋の文化を啓蒙する同志を得たり、とばかりに森鴎外はこの作品を発表したそうです。実際「青年」の随所に漱石のこと、また「三四郎」と呼応する設定の数々が反復されます。
「青年」主人公の純一は、作中出てくる女性すべてが思いを寄せるほどの美少年です。それに対して会で(わたし含め)違和感を唱える声が数々あがったのが面白かったです。^^なにしろ主人公の純一は、どう考えても鴎外その人なのです。(作品では容姿の優れ勉強も出来る、モテる優等生ならではの苦悩も描かれていたりします)
思うに、鴎外はいわゆるKY(空気読めない)、天然の人なのかもしれません。だから留学生活を生き生きと楽しめたのかも。その鈍感力を持ってして。
一方漱石は、繊細で空気を読みすぎてしまったため臆してしまい、留学先で神経衰弱になり、だけれども帰国後は細やかな気遣いの、誰もに愛される作品を書いた。。
オノ・ヨーコのエッセイに「わたしは美人で頭も良いのに、なぜか人に嫌われる」という一文があったことを思い出し、ちょっとそう思いました^^
しかし鴎外が鈍感かと言うとそういうことでは全くなく、会でも鴎外は理系の人というお話しの出たのですが、きっと向いてる方向が違うのだと思います。作中、純一と友人の大村が、純一の下宿先でこれまでになく打ち解け議論し合った後に、友情の楽しさを緘黙の中に味わう場面のあり。わたしはそれが今の感覚ぽくてびっくりしてしまいました。
様々な価値観が押し寄せ、入り乱れ、転覆、反転する明治の時代に、鴎外や漱石の成し得たことは大きなことだと思いました。彼らはまた数々の造語を作っているそうです。言葉は概念です。新しく概念を得ることはとてもむずかしいことです(それこそが勉強だと思うのですが)。生まれてこのかた聞いたこともない概念を数多く得て、体系付ける。名前を付け普及をさせる。とても大変なことだったと思います。それが恐ろしく短い時間で行われたのが明治という時代のようです。「青年」という作品のぎこちなくも青くどこか過剰な(パワフルな)印象は、明治という時代の若さ、空気かもしれません。
*(「三四郎」読み返さなきゃ!ほとんど忘れてます・・・)
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